日常的に使うVRへ: 使い始めやすさと使い続けやすさ

この記事はOculus Rift Advent Calendar 2018の20日目です。

技術や実装の話からちょっと離れて、ここのところ考えていた話を。

VR元年と囃し立てられた2016年から3年近くが経ち、最近は市場の伸びが期待したほどの勢いではないのではないかという声も聞かれます。その一方、日本では特に5月に発売されたOculus Goがその低価格から大きく注目され、同じスタンドアローン型の本命として来年発売のOculus Questに期待がかかったりもしています。

また、去年後半から今年にかけては施設型VRやVTuberなど、末端のエンドユーザーに対して直接VR機材の所有を要求しないユースケースも大きく注目を浴びました。本記事ではあえて、「いかにしてより多くの人にVR技術を直接所有し、使用し、更には使用し続けてもらうか?」という問題を、「使い始めやすさと使い続けやすさ」という概念から考えていきたいと思います。

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「電脳メガネ元年」

電脳メガネサミットとMGOS

先週末の8月4日、福井県鯖江市で開催された「さばえIT推進フォーラム “電脳メガネサミット 〜近未来のメガネを語る〜”」に夏休みを使って行ってきました。

電脳メガネサミット

鯖江市は日本のメガネの殆どを生産するメガネの街として知られています。このイベントは現在開発が進んでいる「頭に付けるコンピュータ」、いわゆる「電脳メガネ」の現在と未来を語るという趣旨のシンポジウムでした。普及しつつあるデバイスどころか、まだカテゴリが立ち上がってすらいないものを取り上げるという、市が主催するイベントとしてはちょっと類を見ないほど先進的な題材だと思いますw。

ゲストも、「電脳メガネ」という名前やメガネ型コンピュータの概念を一躍有名にしたアニメ「電脳コイル」のプロデューサーや、エプソンMOVERIOの開発担当者さんなど架空・現実の電脳メガネにまつわる面々、また電脳メガネのアプリケーションアイデアコンテスト参加者らによる聞き応え十分な話が聞けて、はるばる行ったかいがありました。また、ゲストのみならず来場者も、懇親会で話した場ではかなり濃い面々が揃っていて、文字通り時間を忘れて話しこむほどでした。

と、全体的にとても面白いイベントだったのですが、話が展開していく中であれっ?と思った点もありました。それを抱えて会場ホールから出てきた際、地元のテレビ局に感想を求められたのですが、その場で考えをまとめきる事ができず結局コメントは辞退してしまいました。

その後、他の方の感想ツイートなども読みながらもう少し考えてみましたが、何に違和感を感じたのかまとめておこうと思います。

電脳メガネ=ハードウェアの問題?

MOVERIOのロック画面具体的には、電脳メガネ実現への課題が「通常の眼鏡は数十g程度だが、電脳メガネはまだ数百gと重い」「大きくて不恰好」など、ハードウェアの話に終始していたように感じられました。

それらハードの問題はもちろんそれぞれ重要な課題で、まさに鯖江の眼鏡に関する技術や職人芸の腕の見せ所です。しかし、電脳メガネにとって最大の問題はむしろソフトウェアやユーザインタフェース(UI)・ユーザ体験(UX)、そしてOSなのでは?と思い、それについて質問してはみましたが、「それもあるね」程度の扱いで、あまり突っ込んだ話は聞けませんでした。

アイデアコンテストに寄せられたアイデアは面白そうで、聞いていてワクワクするようなものが沢山ありました。ただ、それらを実験デバイスではなく常用できる製品として実際に実装し、更には単発の製品ではなく生態系の一要素として展開・普及させられるためには、まずそのアイデアを実装できるためのプラットフォームが存在することが前提です。

その為には、まずは現行のスマートフォンでやれている行動を満足にメガネでも出来るように、ユーザ側に向けてはハード・ソフトの統合的なUXを、開発者側に向けてはSDK/APIの設計を整備する方が先決だと思うのです。それにはUXのハードウェア面を実現するための物理的なものづくりの技術も必要ですが、UXのソフトウェア面や、開発者向けの環境を実現するための全く異なった技能もまた非常に重要になってきます。

MGOSを作る

Google Project Glass UIモックアップ過去、人とコンピュータのインタラクションのパラダイムが変わった際には、その新しいパラダイムを最初から前提とした新しいOSが産まれ、そのOSを核とした生態系が発生する事がありました。

「ウィンドウ・アイコン・メニュー・ポインタ」ベースのGUIが登場した際にはMac OSとWindows、モバイルタッチスクリーンUIの際にはiOSやAndroidが、それぞれ新たに普及したOSとして登場してきました。同様に、ヘッズアップディスプレイ(HUD)やARといったパラダイムが受け入れられるためには、HUDやARを活用する事をはじめから前提としたUI/UXを持つ新しいOSを作らなければならないのではないでしょうか。

実際、近未来で展開する「電脳コイル」の劇中登場人物たちのメガネ上で動いていたのはWindowsでもAndroidでもなく、架空のメガネ用OS「MGOS」でした。劇中の電脳メガネのハードウェアとしての祖先となるようなデバイスは現在徐々に登場しつつありますが、MGOSの祖先となるようなOSについては、少なくともあまり聞いたことがありません。

このOS(あるいはそれに値するソフトウェア基盤)をどうやって作るか?どのようなものを作るか?といった議論があまりされていなかったという点が、おそらく感じた違和感の核なのだろうと思います。UI/UX基盤を作る、OSを作る、果ては生態系を作るということは、電脳メガネのハードウェアを作るのにも匹敵する壮大なプロジェクトで、一昼夜でできることでは無いだけに余計に。

メガネの時代をもたらすのは誰になるのか

個人的には、電脳メガネをはじめとしたウェアラブルコンピュータの時代の到来はそう遠くないと思っています。ですが、それをもたらすのが誰になるのか、というのは分かりません。
正確な文を覚えていないのですが、電脳メガネサミットの中では「日本発の電脳メガネを」といった趣旨の発言がありました。また、鯖江市長さんのブログエントリには、以下のようにあります。

微細な情報機器をめがねに組み込める技術力、優れた掛け心地を実現するノウハウを持つ産地は、世界で唯一ここ鯖江にしかありません。

世界に先駆けて「めがねの電脳化」に産地をあげて取り組むことは、「産地再生の一つの鍵」になります。

この記述だけを読むと、ソフトウェア・UI・OSといった部分が言及されていないようにも受け取れてしまうのですが、杞憂であることを祈っています。

勿論、自分でそれを作る試みに取り組んでもいない癖に偉そうに、と言われるとぐうの音も出ないのですが…orz

ひとまずは出来ることから、手持ちのMOVERIOで色々実験してみようかな、と調べているところです。

オヤジとデンスケ

携帯テキストが改行を多用する理由の理由

物語自体とは直接関係ないけど。

携帯テキストには改行が多い。「読みやすくするため」と言われている。確かに、普通の文章と同じ頻度で改行を入れると、文字がビッシリと画面を埋め尽くして読みづらい。改行を入れるのはそれに対処するためと言われる。

この間「恋空」の書籍版を本屋で見かけたが、こちらのバージョンでは改行は全部とっぱらわれていた。つまり改行は携帯で読むのに最適化するための処理で、書籍なら改行が無くても文字が紙面をビッシリ埋め尽くしたりしないので必要無い、という事になるが…
そもそも、じゃあなぜ改行が無いとビッシリになるのか。

neko-cell.gif
QVGAサイズで16ピクセルのフォントをベタ打ち

neko-ttime2.gif
T-Timeによるレンダリング

見ての通り、別に画面が小さいからといって改行を入れないと必ずビッシリになるという訳ではない。もちろん、例で使った「我が輩は猫である」は小型画面用の最適化なんてされてないので、どれだけ工夫しても最初から携帯を前提として書かれたテキストよりは可読性は劣るだろうけど、ちゃんと余白を制御してやればそこまで読みづらいものではないと思う。

日本の携帯は日本語の使用を前提とし、なおかつモノクロ液晶の時代からずっと建増しで進化してきた(はずな)ので、タイポグラフィの概念が全く発達していない。最近は字形こそ高解像度にアンチエイリアスで奇麗だが、幅は全て等幅でプロポーショナルフォントは使用できないし、余白はトラッキングも行間も制御できない。

日本の携帯のOSはタイポグラフィに注意を払う事はこの先も当分無いだろうけど、この程度ならFlash Liteでもツールが作れそうな気はする。
もう作ってる人いる?

「恋空」「最愛の君へ。」読了

一週間前に「恋空」を読み終わり、続いてモバゲーの小説大賞受賞作「最愛の君へ。」を読む。「恋空」の半分程の量なのであっさり読み終わる。多分いないと思うけどネタバレ注意。

「恋空」

  • 一応張った伏線は殆ど回収しており、当初想像していたほどシッチャカメッチャカな展開ではなかった。出したっきり忘れられてるキャラは数人いるが。
  • 最初の100ページ程はなかなかキツかったが、作者自身が書くのに慣れてきたのか、序盤にあったような「いきなりレイプされる」だの「数ページでいきなり精神を病んで入院して自殺未遂」だのといった超展開はなりを潜めた。
  • 場面によって描写の細かさやリアリティにムラがある。「事実を元にしたフィクション」という事になっているので、描写が詳しい所は作者が似た事を実体験しており、荒い所は想像で書いているのだろう。

「最愛の君へ。」

  • 「恋空」と違って物語と現実を混ぜようとする意図が無いためか、主人公の設定は前者に比べると非現実的。流石に高校生がBMW乗り回すのは無理がある。
  • 基本的に一人称なのは携帯小説のデフォルトのようだが、主人公以外の人物の描写をするために視点が断り無く別の人に変わる事がある。もちろん普通の小説でも主観視点を乗り換えていく事はあるのだが、これは別に叙述トリックがあるわけでもなく、なんだか仕方無くやってるような感じがする。また、他に描写のしようが無い時だけ急に三人称に変わる事もある。
  • 意識してかは知らないが、ページの区切りの間で、携帯特有の通信にかかる時間を考慮してるように思えた。

いずれの作品もそうだが、文章に漫画の影響が強く見える。モノローグは漫画でコマの外に書いてあったらすんなりはまりそうな文章だし、音が鳴るような場面で事柄を描写するのではなく擬音をそのまま書いてしまうのも、漫画を真似ていると考えれば納得が行く。逆に日本の漫画のお約束や文法を知らない人はまずそっちから把握しないと読めないかも。

どちらの作品も、主人公と恋人が周囲の邪魔やらモトカノの妬みやらに耐えながら愛を貫き、最後に片方が死ぬという筋。
とはいえ、元々恋愛ものは携帯小説でなくても人気を集めやすいし、かつ今回読んだのは最小公倍数的な人気を集めてる作品だと思うので、もう少し狭く深い支持を集める作品には違うジャンルのもあるのかもしれない。実際にあるのかはそこまで詳しくまだ見ていないので分からないが。

「恋空」100ページほど読んで

さすがにちょっとクラクラしてきた(笑)
具体的には、レイプ・精神を病む・自殺未遂・退学等に関する描写が唐突すぎて、物語を楽しむよりも違和感が先に来てしまう。

ただ、無理矢理だけど説明をつけるなら、これは”suspension of disbelief(不信の一時的停止)”が働く箇所・働かない箇所が違うだけで、やってる事は他のフィクションとそこまで変わらないのかな、と思った。

suspension of disbeliefというのは、「不信の一時的停止」「疑いの停止」「自発的な不信の一時的保留・停止」と色々訳されているものの、うまい日本語訳が無い言葉で、人は物語を楽しむためなら(暗黙のうちに)ありえない事柄に疑いを挟まないようにする、という概念。例えばマリオが身長の数倍もの高さまでジャンプできても非現実的だとケチをつける人は少ないし、ジェームズ・ボンドが透明な車に乗ってもそれで物語が楽しめなくなると文句を言う人も少ない。それはそれぞれ、「人はせいぜい数十cmくらいしかジャンプできない」「車が透明になったりはしない」という事柄に対する違和感を無意識のうちに押さえ込んでいるからだ。

ただ、何に対してどれだけ違和感を押さえ込めるかというのは、話の展開、また見ている人によって異なる。「マトリックス」で主人公達が重力を無視したアクロバティックな動きができるのは「マトリックスの仮想世界を超越しているから」という説明が本編内でなされているから信じやすいが、同じ事をラブコメ映画でやったら異様以外の何物でもない。また、SF映画にあるような、何かする度にピコピコ音が鳴るような派手なコンピューターの描写は、コンピューターに疎い人には見過ごされるかもしれないが、コンピューターにまつわる職業の人なら苦笑してしまうだろう。

「恋空」における描写、およびそれが受け入れられている事に説明をつけるなら、その不信の一時的停止の対象範囲が自分とは異なるという事なんだろう。実際、2chでも電車男痴漢男新ジャンル系などなど、広く支持を集める物語は沢山生まれているが(そして個人的にはこっちの方がすんなりと読めるが)、これらにしても現実と照らし合わせたら明らかにおかしい箇所は山ほどある。そのおかしい箇所に対して感じる違和感が邪魔をしてこれらの物語を楽しめないという人もいるだろう。ぶっちゃけた話、それを指摘して騒ぐのは「野暮」なわけだが、だとしたら携帯小説のリアリティの不備を指摘して騒ぐのも、やっぱり「野暮」という事になるのだろう。

まあ、当初「恋空」はノンフィクションという触れ込みでアピールしていた、というのは流石に言い訳できないけど…